仏の教え

 日頃、仏様の教え(お経)についてお檀家に自身の体験を含みながら、
話させていただく事が多ございます。

『努力を怠らなければ必ず望むべく地に到達するでしょう』

直訳すぎますか。 この意味を誤解せずに日々の生活に当てはめて考えたいと思います。




注:分かりにくい表現になりがちですがどうかご勘弁願います
 『自戒を設けて』と、言うは容易いのですが、どうしても『戒』イコール辛い事と
理解される方が多く存在します。

他に迷惑をかけてしまった時に自身で思う反省に戒(いましめ)をする。
これは自戒という事に程遠いのではないのではあるまいか。

そもそも何かをしたから何かで補うというのは私の『戒』というイメージにはなく、
あるいは『罰』という言葉に置き換えてみると反省という言葉に沿っているのかも
しれません。

『あくなき努力』
 #少々美しすぎる言葉を選びすぎの感はありますが、

何事にも積み重ねは大事だという事。極みに到達した後もやはり同じ足取りで積み重ね続ける。
この事を生活に取り入れる事が大切ですよ。仏さまの教えはこうなんです。 
最近の法話の中で話します。

奇麗事ばかりと恥じ入るならば自身の生活と照らし合わせてみます。

【御詠歌】
私が御詠歌を習得した教室では、教師育成前提の教えを行っておりました。
しかし誰よりも上手くなりたいという念にかられて、人に教える為の努力ではなく
自身のレベルアップに2年間を費やしました。
最終試験に合格した後、全国檀信徒宛ての講師には選定されず、私よりも後に
合格した方々が先に選ばれ、何故なのだと地団駄を踏むこともしばしばでした。
ある時、助教として御詠歌を習う方の目の前に出され、30分時間を与えられました。
さて、私のした事は・・・。 御詠歌の本質、内容の解説のみにあらず、大師がとか
作曲したとか作詞とかの説明が全くできず、ひたすら技術のみを伝えた所、
とどのつまり15分も話がもたずに先任教師に助けを求めました。
いうならば私は技術の腕を上げただけで思い上がっていた事でした。
合否から言えば、技術は有った方が良いのはあたりまえだが、ひけらかした所で
どうしようもない。

先師より我々はお稽古事をしているのではなく、御詠歌を通して仏の教えに触れて
いただき、人生の豊かさを再認識していただくのが本来の目的である。
腕を磨く事も大切だが、それ以上に仏のおしえを説く事が大切なのです。

人は誰しも何かの経験の上に成り立っています。 努力に無駄なんてのは何もありません。
御詠歌を通して気付かせてくれた事、そして伝えなければいけない事を学びました。
到達した時には何も迷いがなかったはずなのに、持続し続ける事によってまた違う事が
見えてまいります。 仏の教えってこの様な事ではないのかなとまたひとつ自身に刻まれます。

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